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宗教法人猿田神社の社殿

猿田彦大神が鎮座する、
災厄を祓う古社

猿田神社は、千葉県銚子市猿田町に鎮座する歴史ある神社です。

八方除けの神社として広く知られ、あらゆる方向からの災厄を防ぐ御神徳があります。

また、豊かな緑に囲まれた境内は、心を落ち着かせるパワースポットとしても人気です。

氏子の人々はもちろん、多くの参拝者にも愛され続けている神社で、特別な行事や日常の祈願まで、幅広い目的で訪れることができます。

和紙背景

御祭神

猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)

 御本殿の中央に鎮座。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫神で、皇室の祖である邇邇芸命(ににぎのみこと)を天界からこの国土に導いた神です。ただ当社の伝承では、その後、鹿島神宮の御祭神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と香取神宮の御祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が東国を平定する際、その道案内を務め、両神が鹿島、香取の地に鎮座されたあと、この地に鎮まられたとされています。

天細女命(アメノウズメノミコト)

 御本殿の左に相殿の神として鎮座。天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸の前で様々な所作をして天岩戸より出ていただく導きをした神です。また、邇邇芸命が天界から降臨する際、供をして一緒に国土に降りてこられました。

菊理媛命(ククリヒメノミコト)

 御本殿の右に相殿の神として鎮座。御本殿の右の神は、江戸時代初期は手力雄命(たぢからおのみこと)あるいは大己貴命(おおあなむちのみこと) とされていました。宮司家の先祖、二十五代当主(1800~1840)、二十六代当主(1828~1884)は平田国学の門人で、『日本書紀』には伊耶那岐(いざなぎ)、伊耶那美(いざなみ)の夫婦神が黄泉の地で争い事をした時、菊理媛命がその仲裁をしたという記述があります。このことから、猿田彦大神と天細女命の夫婦神と共に祭るのにふさわしいとして、菊理媛命を相殿の神としたと考えられます。

宗教法人猿田神社の拝殿
和紙背景

御由緒

第十一代垂仁(すいにん)天皇二十五年十一月十五日に御鎮座されました。例祭日は十一月十五日です。宮司、氏子総代、猿田町内会代表による祭典で、神輿の渡御などの行事はありません。

江戸初期の古文書には、芝台というところに老翁が忽然と現れ、三日三夜アヤシキヒカリを放った後、行方がわからなくなり、民が託宣を行うと、「吾は是れ猿田彦大神なり」と名のり、この地において民を護るという神託があったことが記されています。現在境内地は昔の半分以下となっている為、小字「芝台」の土地より東方百五十メートルの地(境内の西端)に、大神降臨の地として元宮が建てられています。

平安時代後期崇徳(すとく)天皇の御世に、祭祀に関わる官人であった宮司家の先祖が、都から下向し猿田左近と名のり初代神主(大中臣を姓とする)となりました。そして大治(だいじ)二年(1127)に、芝台の地から現在の社殿の地に、猿田彦大神をお遷しいたしました。

鎌倉、平安時代、この下総国は、千葉氏が守護となりその一族が各地を統治しました。千葉県東部を統治した一族の海上氏の本拠地が、当社の東方約四キロにあり、海上氏をはじめとする千葉氏一族の崇敬をうけました。ただこのことから、永禄九年(1566)と天正三年(1575)、安房、上総国を支配していた里見氏が下総に侵攻してきた時、社殿を焼かれるということもありました。

江戸時代、幕府から神領として三十石の御朱印地を頂戴していました。現存する御本殿(千葉県有形文化財に指定)は、延宝八年(1680)に、拝殿は延享五年(1748)に建てられました。

明治以降は、本来の猿田の地の産土神として、近隣の崇敬社として信仰されています。

境内の森は、貴重な極相林(その土地の本来の植生を示す自然性の高い森)として千葉県天然記念物、千葉県郷土環境保全地域に指定されています。

宗教法人猿田神社の社殿
紫の和紙

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